まぶしくて見えない。

空気が春めいてきて、ひさしぶりに中村 中さんの「あしたは晴れますように」というアルバムをかけていた。デビュー後3枚めのアルバムで、わたしはこのCDを東京新宿のタワーレコードで買った。大学1年のころだった。インストアライブの日で、人ごみのずっと後ろ、他のファンたちの頭で見えない中さんを必死で追いかけていた。

 

2008年から2013年の5年間、わたしの記憶はおぼろがかったように曖昧で、けれど断片的なおもいでが、ひどく鮮明に、とうとつに立ち上がる。

春が近づいてくると、わたしはいつもせつない。心ぼそい気もちになって、このまま消えて無くなりたいような、いっそうそのほうが楽なような。

大学の入学式の直前に亡くなった祖父のこと。葬式に行かれなかったこと。祖母からのメールの文面を、どうして今でもおぼえているのだろう。それだけかなしかったのか、くやしかったのか。ワンルームの部屋でぼんやりと、朝の身支度をしていたこと。夢みたいにつかみどころのない大学生活と、言うことのきかない身体とこころ。持て余すばかりの情熱、なにもできないことへの焦燥。としごろの娘が抱えるあらゆることを、わたしも当然のように抱えて、鬱屈しながら東京で暮らした。

今ならもっと上手くやれるだろう、でもあのときはあれで精いっぱいだったんだって、大人になったわたしが言う。ずっとくるしくて、ずっとしにたかった気もちを、さいきんになってようやく手離せた。とても時間がかかったけれど、人間はあんがい丈夫にできている。そのことが、今ではふしぎ。

生きていてほしい人がいて、わたしはとても元気に生きていると伝えたくて、今、この現実を暮らしている。会いたい人に会えなくなってしまった世界、まるでSFだ。いつか終わりが来るのだろうか、そんなことたぶんだれにもわからないね。でも希望をもつ。あしたは晴れますようにと思いながら生きる。むかしのことを思いだしていた、あるあたたかな冬の終わりの日。