『fishy』を読んで。

金原ひとみ著『fishy』(朝日新聞出版)を読み終えた。

図書館の棚で、「fishy」と書かれた背を見つけたとき、単語から咄嗟に想起された言葉は「うろくず」だった。

うろくず。”魚”を意味する名詞。「fishy」は形容詞で、「魚のような」「胡散臭い」「胡乱な」「怪しい」などの意味があり、完全なまちがいではない。

けれど、うろくずという単語にわたしが持つイメージは、うつくしい海を泳ぐ魚ではなく、暗い水底を、泥にまみれながら泳ぐぬるぬるとした魚、だった。

そして『fishy』を読み終えたいま、そのイメージは、あながちまちがいではなかったのではないかという思いにさせられている。

 

美玖、弓子、ユリの三人の登場人物たちが、酒を飲みながらそれぞれが置かれている状況についておしゃべりをしている。彼女らのおしゃべりがこの物語の中心になっており、おしゃべりを軸にして時間がすすみ、物語は展開してゆく。

あけすけな話題はけっして白日に晒せるものではないけれど、夜のまちであれば、そして酒を飲んでいれば、まるで迸る水のように言葉はあふれ、感情は蠢き、加速する。

三人はけっして仲良しなわけでも親友同士なわけでもなく、ただ集まれば酒を飲んでおしゃべりに興じる、一貫して関係性のない関係として描かれている。その描写がなまなましくて、ぞわりと鳥肌が立つ。

関係性のない関係はまさに胡乱で、うさんくさい。「fishy」というタイトルがここでも存在感を放つ。

彼女らはそれぞれの立場において、不倫をしていたり、不倫をされていたり、素性が不明だったり、慰謝料を請求されたり、お金のために辛酸をなめる思いで働いたり、離婚を要求されたり、ナンパした男と同棲したり、している。

限りある人生のなかで、人はいったいどれほどの経験を得ることができるのだろう。

それがよいものであれ悪いものであれ、経験を”経験値”に換算して肉体に蓄えられる能力が、おそらく彼女らにはあったのだろうと思う。

終盤に向けて、大きく動いてゆく物語に必死についてゆきながら、美玖の、弓子の、ユリの、その強靭さに圧倒されていた。泣いたり喚いたり鬱になったりしながらも、”おしなべて人生の奴隷”であることを享受し、果敢に人生をまっとうしようとする強さに。

物語が終わったのち、彼女らはまたそれぞれの生活に戻っていく。そしてそれぞれの人生を生きつづける。美玖は離婚するかもしれないし、弓子の家庭は円満になるかもしれないし、ユリの恋愛は破綻するかもしれない。そういった、たくさんの”かもしれない”が待ち受けている未来に、それでも足をすすめる。

強さに圧倒された、と書いたけれど、わたしだって人生の奴隷の一人で、そしてそれに立ち向かっていることに変わりはない。自覚をしていないだけで。

漠然と、しあわせになりたいと思う。つらい思いはあまりせず、平凡ながらもしあわせな生活を送りたい、と。けれど未来なんて、どうなるかわからない。案外早い段階で”詰む”かもしれないし、そもそも人生そのものが、ブツッと音を立てて終わるかもしれない。

わからない。なにもわからない。だから人はみんな、”人生の奴隷”。

 

物語は終わったけれど、人生は終わらない。彼女らの人生が、これからどうなっていくのか知りたい気持ちと、もう二度と三人に関わりたくない気持ちとが、揺れている。

彼女らとわたしは友だちになれないし、あちらもわたしなど目の端にも引っかけないだろうな。でももしどこかで、彼女らのような人と知り合ったとして、そのときは奴隷どうし、会釈くらいはするかもしれない。

そのくらいの親密さは、表現してもよいのかもしれない。

 

 

嫌いだというのは青き魚(うろくず)、あなたがきらいとはいわなんだ/野口あや子『眠れる海』