眠れずに迎える朝は心細い。
それなりに疲れてきているのかもしれない。
朝、パソコンをつけて、なにも映っていない画面――もしくは、なにがしかのネットの――を、ぼうっと眺める。パソコンで何をするかといえば、ずっと考えていた夫へのプレゼントを注文・購入するくらいで、特にないのだけど、なんとなくの惰性。あまりよい習慣とは思えない。思えないのだけど、スマホは目がひどく疲れるし、パソコンでいろいろの情報を見たりぼんやりSNSを眺めたりする無為な時間が必要なときもあるのだと思う。
台湾のオードリー・タン氏がなにかの雑誌で仰っていたのだけど、タブレットを扱うとき、オードリー氏はタッチペンを用いるのだという。直接ゆびで画面を操作すると、機械(タブレット)とじぶんが一体化してしまって、心身によくないのだそう。(細かい内容は忘れてしまったけれど、大意はそうだったと思う)
パソコンは、わたしとインターネットの世界とのあいだに、かろうじて境界線をつくってくれる。スマホでネットをみるのと、パソコンでネットをみるのとでは、たしかに使ったあとの疲労度がちがう。気がする。
だからといってパソコンを長時間見つづけてよい理由にはならないのだけど。
ここ数日、あまり質の良い睡眠がとれていなくて、暑かったり涼しかったり、湿度が高かったり、気圧が落ちていたり、そういった気候の変化にからだがついていかない。日中のすき間時間で、短時間の瞑想したりしてバランスをとっているのだけど、果たして。
眠れない夜、ひさしぶりに歌集をひらいて、ぽつぽつと歌を目で追った。弱っているとき、歌は、やはりわたしにやさしかった。
音、ひぐらし。
あのね最近また音楽をよく聴くようになりました。
むかし――十代のころ、とか――みたいに、CDだったり、配信されてるデータだったり。媒体はいろいろだけど、音楽を聴いていることに変わりはなくて、まだこうやって音楽を、心から楽しんで聴けてるのがふしぎで、うれしくて、まいんち感謝している。このうつくしい音をつくってくれた彼ら彼女らに。
思えばこの2年くらい、音楽にしっかり耳を傾けてなかったような気がする。聴かなくてもだいじょうぶで、聴かなくても死ななくて。でもやっぱりわたしは音楽を聴くのがとてもすきだったんだね。そういうことを思いだした。
2年まえ、いまのおうちに引っ越しをするにあたって、手離した音たちがある。本棚に入りきらなくて、押し入れに入れっぱなしだったものたちも。だけどそういう子たちを、ちゃんと出して整理して、聴きたいなあといまは思っている。
あのアルバムに入っているあの曲はいいよねとか、あのアーティストの歌声はほんとにたまらんよねえ。
そういうこと、考えたり話したりするのが、ほんとうにとても楽しい。
今朝、起きたとき。早朝。ひぐらしの鳴き声をききました。
いちおう、暦の上ではいまはもう晩夏にあたるんだよね、などと思いながら、でも暑さはこれからまだまだ。今夜は桃をたべます。
たとえばこういう過ごし方。
自宅からはちょっと遠いけど質がよくて安いスーパーに行く。とうもろこしが安かったので2本(ちょっと細い)、38円/gのかぼちゃ、見切り品のスペアリブ(450g)などを買い、久しぶりに料理するテンションになれたので、帰宅してさっそくスペアリブを甘辛く煮た。お酢もすこし入れた。とうもろこしを湯がいて、かぼちゃを炊く。なすとピーマンは揚げ焼きにして、twitterで知ったかんたんな焼き漬けにした。
お昼ころから休み休み作って、なんかこういう休みの過ごし方っていいな、と思う。家事をして、やすんで、家事をして、やすんで。平和だし、たぶんとても幸せ。
このところは暑さもあって、体調がずっとよくなかった。体調が悪いとなにもかもが悲観的に思える。見なくてもいいものを見てしまう。だからスマホを、というかSNSを極力見ないようにとか、じぶんに出来うる対処をいろいろと試していた。
わたしはほんとうに情報の波に弱くて、テレビのニュースもNHKくらいしか観ることができない。アナウンサーが一人でたんたんと情報を読み上げるタイプのもの。
ぎゃあぎゃあうるさくて、色がちかちかしていて、民放のニュースやヴァラエティは、だからあまりすきじゃない。
SNSはアカウントを作って登録をしてしまっている限り、意識しないとふりまわされつづけてしまう。instagramはログアウトしたけど、twitterはかんぜんにはやめられなくて、最低限アプリの使用制限をもうけるくらいしかできない。
べつにSNSがわるいわけではないんだけど。
6月から仕事を始めて、体調のことがあるからいまはまだ週に一回だけ、だけど、働くことになった。2年ぶりに働いて、先日初任給をいただいた。うれしかった。じぶんで働いて得たお金ってこんなにもありがたいんだなって久しぶりに思った。
働き始めて一か月がたって、欲が出てきて、もっと回数を増やしたいとか、長い時間勤務したいとか、思うようになって、
焦ってすっ転ぶことは目に見えているので、とりあえずおちついて。
いまはいま、できることをする。もうすこし体調がおちついて、感情のコントロールがじょうずになってきたら(それでも以前よりはずっとよくなっている)、そのときにまた相談して、考えよう。
仕事柄、その分野について勉強しなければならなくて、ブランクがあるからよけいに。勉強、します。しています。
学びたい気持ちがちゃんと長くつづいてくれたいいな。
2021→2022 手帳会議(仮)
Ashfordのライフオーガナイザーをお迎えして一週間が経って、使い方がだいたいだけど定まってきた。そしてすこし早いけど9月からは新しい手帳も出てくることだし、手帳会議(仮)をしてみたのでまとめてみる。
もちろんこの先変わることもあるだろうけれど、いまのところの予定。
アシュフォード ディープ ライフオーガナイザー A6+ミニ6
・メイン手帳。未来軸、希望について書く手帳。
・年間、月間、週間の主な予定管理はすべてここに集約。仕事のスケジュールも基本的にはここに転記。
・デイリーログ。日々の体調管理、天気や湿度の記録。
・wish list、或いは欲しいものリスト。欲しいもののその理由、用途、値段、スペックなどの調べたこと。
・タスク管理。
・ハビットトラッカー。習慣の見える化。
基本的には公私混同で使ってゆく予定。ウィークリーリフィルは一週間見開きのものが欲しい。
ロルバーンダイアリー or 能率手帳などの綴じ手帳
・サブ手帳その1。過去軸、達成した事柄を書いていく手帳(ノート?)
・その日達成したこと(LOから転記)。
・読書記録。
・買ったものリスト。
・その他調べもの。
できたこと、うれしかったこと(過去軸)を書いて記録していくための手帳。ロルダイアリーだと挟むとけっこう嵩張るので、能率手帳かなあ。ここはまだ模索中。A6サイズのちいさめ手帳で、よいのがあれば使いたい。
torinco 7 or 8
・サブ手帳その2、というかお仕事用。7か8か迷い中。
torinco 1
・サブ手帳その3、というか日記用。2022年は日記を手帳に書いてみようかな、って。見返しやすそう。
・その他書き殴り用にMDノートがあるとよいかも。
ロルバーンフレキシブル L or A5
・勉強用。いまいちばん気になってるノート。サイズは迷い中。A5のほうが広々使えてよいかな?
こんな感じだろうか。。
いま特に使ってみたいのはロルフレキシブルで、サイズもカラーも展開が豊富で選ぶのも楽しそう。勉強用なのですこしでもモチベが上がるものがよいよねということで、お値段は張るけど、まあ、、という感じ。
そんなこんな、手帳会議をしていた早朝でした。
なんとなく。
なんとなく、instagramをログアウトしてみた。twitterもアプリの使用時間制限をかけて、そもそもあまりスマホにさわらないよう意識をするようになった。なんとなく。ほんとうになんとなく。
SNSに依存しているなあ、と思ってはいた。そして同時に、疲れてきているなあ、とも、ばくぜんと感じていた。べつにSNSが悪いわけではなくて、わたしの使い方の問題なのだけど。
インスタをみて、投稿に逐一「いいね」を押すのがひどく苦痛になってきて、「いいね」されることにも抵抗を感じ始めていた。インスタのアカウントはメインの写真のアカウントと、手帳関係の記録をしているアカウントと、あとたしかもいっこあるのだけど(持ちすぎ)、
特にメインアカウントのほうの、写真に「いいね」がつくたびに、その写真の”意味”みたいなのが(そんなのがあるとは思えないのだけど)、削げ落とされてゆくような、そんな気がして、
意味、だなんて! そんなものねえよとわかってる。けど。思い上がってるよな、ばかみたいだよな。でもほんとうに、なんとなく、そんな気がしていたのでした。
くりかえしますが、インスタはぜんぜん悪くなくて、これはわたしの使い方・感じ方の問題。
SNSから距離を置いたら、ぽっかり時間ができた。仕事と家事のあいまの時間がわりとたっぷり取れて、書き物や読み物をしたり、さいきんは手帳を新しくお迎えしたので、それを眺めてにやにやしたり。そういうことができるようになって、そして情報も最低限のものしか入ってこないから、頭にも容量ができた気がする。ちょっとずつだけど、仕事のための勉強を始めた。
あまりにもネットに親しみすぎてデジタルデトックスというほどストイックにはできないけど、時間ってこうやって作るんだな、って、そんなことを思った。
ミルクティー、夜と朝のまにまに。
わたしはわたしのことをほんとうに見てくれる人のためにものを書いたり写真を撮ったりしたい。
わたしはただの一般人で、趣味で歌を詠んだり写真を撮ったりしている。ぜんぶが趣味で、自己満足で、なぐさめの行為に過ぎない。新聞歌壇に投稿したり、twitterに歌を流したり、写真を載せたりすることが、わたし自身を癒し、なぐさめてくれるから、している。
わたしはわたしのつくったものを、それなりに愛している。でもそれはただの愛着で、執着で、ねばねばした粘着質な気持ちからなるものかもしれない。わたしがとてもウェットな人間なのは自覚しているので。
instagramをやめた(正確にはやめてはいない、ログアウトしただけなのだけど)のは、じぶんの撮った写真を、ああいう場所で見てもらうのに違和を感じたからです。あとは単純に、すこしあたまに容量をつくりたい、という気持ちもあった。ようするに、キャパオーバーだった。
さいきん、わたしはパートナーとふたりで、静かに穏やかに年を重ねてゆきたいな、とつよく思うようになった。むかしから思っていたけれど、このごろ特に。仕事を始めて、まあまあ神経をつかって疲れてきているからなのかもしれない。
ふたりのあいだには誰のなにの介入もいらなくて、ただ流れてゆく時間だけがある。甘いとか辛いとかではなくて、真水のようにすきとおっていて、純度の高い時間。そういう生活は、わたしをきっとひどく安心させるのだろうと思う。
守りたいものが壊れるのがこわくて閉ざしてしまうのは、よくないけれど、ドアを開けっ放しにしておくわけにもいかなくて。
そんな時間のなかで、本を読んだり日記を書いたりしながら、すきに歌を詠んで生活を記録して、って、できたならそれで幸い。
眠れない夜にはミルクティー。
夜のスキマにkiss 投げてよ、て、フィッシュマンズがうたってる。